三大温泉地に数えられるお湯処。
白浜温泉は、日本三古湯(白浜温泉、有馬温泉、道後温泉)に、
また三大温泉地に数えられるお湯処。
飛鳥、奈良朝の時代から「牟婁の温湯」「紀の温湯」の名で知られ、斉明、天智、持統、文武天皇をはじめ、
多くの宮人たちが来泉された1400年余りの歴史を持つ由緒ある温泉観光地で、
万葉集や続日本書紀にもその名が残されています。
日本書紀26巻には、有間皇子の悲劇として牟婁の温湯、紀の温湯の名で記されています。
「限りなき碧き海よ空よ光よ ここは常春の國だ 湧きき出る湯の國だ」
斉明紀三年(西暦六百五十七年)九月、有馬皇子が「牟婁の温湯」に湯治しにお越しになった時のお言葉です。

更に皇子は「彼の地は、ただ訪れるだけで病が自ずからよくなった」と当地を賞讃されたのです。
しかしながら、中大兄皇子と蘇我赤兄の謀略にのせられて、あたら華の蕾のうちに、悲劇の最後を遂げられた皇子の生涯を思うとき、誰しも一掬の涙を禁じ得ぬものがありましょう。
温泉は、時代が進んで江戸時代には、文人や藩の武士、武家の女中たちが多く訪れ、華やかな賑わいを見せていました。

交通は海路で田辺市から船で来る事が多くこの頃から湯崎温泉と呼ばれるようになったようです。
また、大正末までは、湯崎海岸の岩場に自然噴出している湯を下に小石をしいて引き込んだ、共同の外湯でした。

明治20年、紀州航路が開かれ大阪方面から汽船で直接来ることができるようになると温泉は急速に発展しました。
大正末期から昭和初期にかけて、湯崎地区から全町的に各地区に開発会社による開発が行われ、
大正12年には道路網も完成、白良浜を中心とした現在の白浜温泉街が生まれました。
大浦温泉、古賀浦温泉の誕生もこの頃です。
特に昭和8年、鉄道が開通し白浜駅が出来ると関西屈指の温泉観光地として広く知られるようになり、
町全体が白浜温泉として大きく発展しました。
現在は年間300万人を超える観光客でにぎわう日本の三大温泉観光地となっています。